園について

ここでは、旭幼稚園の方針、歴史、
また園舎/園庭などをご紹介いたします。

 

幼稚園型認定こども園とは

 旭幼稚園は、 2015年幼稚園型認定こども園としてスタートしました。幼稚園型認定こども園とは、その幼稚園の教育方針はそのままに、預かり時間の延長、所得に応じた保育料設定が可能になるなど「保育所」としての機能も併せ持つ対応を拡げた施設のことです。この制度により、幼稚園としての教育利用はそのままに、今まで保育園や認定こども園を選択してきたご家庭が、保育利用として、「幼稚園の教育」を選択することができるようになりました。

 旭幼稚園は、「子どもの立場を尊重した幼児教育」をどのご家庭でも選択できるように願い、この度この制度改変を行いました。
幼稚園型認定こども園は、目的を「幼児を養育する」ことだけではなく、従来の幼稚園がもつ「幼児教育」に重きを置いております。またその園によって、その幼児教育の特色は違います。園を選ばれる際は、その園の特色をご理解いただき、選択されると良いと思います。

 

 

園の方針

縦割 自由保育

子どもたちの社会性/思いやり/知恵など「生きていくための土台」になる大切な部分を育てていく為には、子どもたちが自発的に「やりたい!」と思った遊びを思う存分できる環境と時間が必要です。その為に、自己肯定感を養う「キリスト教保育」、そして年齢の枠を外し、異年齢が影響しあえる「縦割り保育」、子どもひとりひとりの「心をつなぐ保育」で、自主性を育む「自由保育」を充実させ、この時代を生き抜く真の力を身につけて欲しいと考えています。

 

 

園庭/園舎について

 旭幼稚園の門に立つと、まず大きなけやきの木、広い園庭が迎えてくれます。旭の園庭と園舎は子どもたちの自主性を存分に尊重できるように作られています。園舎はどのお部屋にも自由に行き来することができ、子どもの自主的な遊びを支えます。またどのお部屋からも子どもたちを自然に園庭へと誘うような設計をしており、体と心が存分に動かすことができるように工夫しています。
 旧園舎の老朽化により、2006年に全面改築しました。
当園が大切にしている「縦割自由保育」をより充実させていくことをねがって…。

旧園舎

長い歴史のある旭幼稚園では、卒園児の中に、今の園児の父母の方はもちろん、祖父母の方もいらっしゃいます。旧園舎を懐かしむ声も聞かれますので、少し写真を掲載します。

 

 

大きなけやきの木の下で

大きなけやきの木の下で

「ひとつの大きな木が、そこに集う子どもたちの遊びに変化を与えるのです。」
これは、ある保育園の先生の言葉です。

子どもたちを暖かく見守る大きなけやきの木の存在は、子どもたちに季節の移り変わりをその姿で教えてくれます。
春には、芽吹きと共に爽かな風を運び、夏にはその葉と枝を両腕のように広げ、暑さを和らげてくれます。たくさんの落ち葉が舞い散る秋には、その木の葉の数だけ、「生きることとは何か」を問いかけてくれるようです。集めた落ち葉はふかふかのベッドに、また焼き芋で楽しませてもくれます。
そして冬。雪が舞い散る季節には、葉を落とした枝々の重なりが凛とした木の姿を映し出します。寒さの中で堂々とたつその姿に、子どもたちは「どう生きるのか」を心の奥底で、感じとることでしょう。

 

園の歴史(あさひのはじまり)

幼稚園の始まり

 1872(明治6年)から、日本伝道を始めたカナダソヂスト教会は、東京に東洋英和女学校(現東洋英和女学院)を設立し、静岡英和女学校、山梨英和女学校を姉妹校として開設した。さらに、長野の町に女学校を開設しようとして、1896年(明治29年)イサベル・ハーグレーブら二人の女性宣教師が派遣されてきました。
ミッションスクールの設立準備を始めましたが、女学校設立は難しく暗礁に乗り上げました。ちょうどその頃に、信徒の夫人である千葉綾子がミス.ハーグレーブに「子どものための真の教育を」と、幼稚園の設立を強く勧めました。
それがこの旭幼稚園の始まりです。

幼稚園の始まり
明治/大正頃の保育 明治/大正頃の保育

明治/大正頃の保育

 この頃の園長、ワイグルの指導で、旭幼稚園はフレーベルの精神を基本にした保育を行っていました。教育はフレーベルの恩物を系統的に教授する教育ではなく、フレーベルの精神を生かして、自然界の神秘と神の恵みをつぶさに知ろうというものでありました。自然の中に神を見ることは植物観察という課目も担っていました。
この頃の保育は、規律を重んじる保育方法を維持していました。しかしたえず新しい教育を積極的に取り入れていました。
大正期の自由教育の風潮の中で、自由遊びが重視され、遊びの中から主題を見つけ出していくことが保育の重要な方法となっていきました。
昭和に入り、戦時下の幼稚園は小学校の義務教育と同じく、戦時色の濃いものに変わっていきましたが、ミッション系の幼稚園は自由の気風が残っていました。1940年(昭和15年)にカナダ人園長が戦争で帰国させられ、旭幼稚園は長野県県町教会へ移管され、日本人牧師の三和義一が園長に就任しました。そこから、日本人牧師が園長に就任していくことになりました。

現代へと繋がる「本郷/旭幼稚園の教育」

 県庁前の道路拡幅工事に伴い、本郷の今の場所に移転した旭幼稚園。移転した当初は、年齢別の三棟の園舎でした。また全園児が交流できる礼拝堂兼遊戯室がありました。各保育棟にはテラスがあり、このテラスが保育室の一部として設計されていました。このテラスはそのまま、広い園庭へと繋がり、園舎と園庭は連続していて、いわば庭が園舎に取り入れられ、あたかも保育室の一部であるような一貫性が与えられていたので、園児は内側から外へ抵抗なく出られる作りでした。
 そのコンセプトは、今の園舎、園庭にも引き継がれています。
この構造が生かされ、園児は自由に自由遊びを構築できるので、「自由保育」という教育が実り豊かに実践されていました。世の中は早期教育に走り、英語や漢字の学習などを行う幼稚園が多かった1970年代に、旭幼稚園は自由保育の旗を前面に掲げた保育を表明し、積極的に実践し、その教育思想を保護者が作る「旭」という機関誌に自らの理念として打ち出していきました。
その後、急速な幼児出生率の低下により、どの家庭も複数の大勢の兄弟はいなくなりました。そこで、未来を担う人物を育てる為に、年齢の枠を外し、同年齢以外の園児から学び、学ばせる為「縦割保育」という保育形態を、実践に移しました。
今日の「縦割自由保育」いう保育形態は、長い歴史の中で、社会の変化を鑑みながら生み出されてきたのです。

明治時代の創立期から現在まで、様々な幼児教育思想の変遷の中で、常にあるべき教育を志向する教育姿勢は、旭幼稚園の伝統として今もなお、息づいているのです。

(「百年の歩み」より抜粋)

 

子どもたちを見守る活動「母の会」について

当園には、保護者の皆さまが会員となり運営する保護者会「母の会」があり、園の行事を支えていただいております。
行事のお手伝いをはじめとする、様々な「母の会」の活動を通して、保護者の皆さまが交流を深め、絆を強くし、より身近に園での生活を感じ、子どもたちの成長を見守っていくことができるよう願っています。

自主的な取り組みとしてクラブ活動などがあり、保護者同士の交流を深めていただく機会になっています。

【主な母の会の活動例】

なつまつりのお手伝い/お誕生会でのカレー作り/「旭誌」制作/例会・懇親会などの企画・開催/読書クラブ・コーラスクラブなどのクラブ活動/その他 園行事に関わるお手伝いなど